熊本城の被災修復と細川忠利
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第一章 細川忠利入国直後の熊本城と領国の状態17だったのではないかとも考えられる。後に幕府へ城の修理を願い出る願書(寛永十一年三月十七日付「御自分御普請」文・下・四五、本書四六頁)の中で、「加藤代からの塀・矢倉は大方修理が必要」と記しているところから、大地震から七年経っても城の修復は進んでいなかったのであろう。ここで、被害の実態を理解する上で重要なので、「斎藤伊豆殿の棒庵の屋敷」について検討しておこう。加藤家の重臣斎藤伊豆守利宗は、細川家にとっては特別な存在であった。忠利の母方の祖父明智光秀の家臣であり、妹は将軍徳川家光の乳母春日局、甥は江戸幕府老中稲葉正勝である。本能寺の変の後の山崎の戦いで敗れ、細川忠興のお預かりとなった。その後、加藤清正に仕えたが、加藤家と細川の間の取次として、細川家はずっと斎藤伊豆守と親交を続けていた。肥後が大地震と聞いて、何よりも斎藤のことを心配して、使者を送ったのである。斎藤伊豆屋敷は、同じく加藤家の重臣下津棒庵屋敷の隣にあった。なお、この史料の原文には「斎藤伊豆殿防庵ノ家」とあり、これを斎藤伊豆殿と下津棒庵の家と解釈し、被害は城内の局所にとどまったと見る向きもある。だが私は、
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